2024年4月から放送がスタートしたNHK連続テレビ小説「虎に翼」。
主人公・猪爪寅子を演じるのは、女優の伊藤沙莉さんです。
この作品は、日本初の女性弁護士であり、のちに初の女性裁判官となった三淵嘉子さんの生涯をモデルにしています。
「虎に翼」のモデルは一体誰なのでしょうか?三淵嘉子さんとはどのような人物だったのでしょう。
伊藤沙莉さんが語る、この作品の魅力や演じる上での苦労、そして三淵嘉子さんの生き方から学んだことなどを探っていきます。
- 虎に翼のモデルは、日本初の女性弁護士で裁判官となった三淵嘉子である
- 三淵嘉子は、女性の権利が制限されていた時代に、法曹界のトップランナーとして活躍した
- 三淵嘉子は、賢く正義感が強い一方で、お茶目で多才な一面もあった
- ドラマ「虎に翼」は三淵嘉子の生涯を基にしているが、オリジナルストーリーも展開されている
虎に翼のモデルは誰?三淵嘉子さんについて
三淵嘉子とは?日本初の女性弁護士
三淵嘉子さんは、1914年11月13日にシンガポールで生まれました。父親は台湾銀行の支店長を務めていました。
嘉子さんは、東京女子高等師範学校附属高等女学校(現在のお茶の水女子大学附属高等学校)を卒業後、当時では珍しく法律を学ぶために明治大学専門部女子部法科に進学しました。
1938年に明治大学法学部を卒業し、1940年に弁護士登録を行い、日本で初めての女性弁護士となったのです。
三淵嘉子の学歴 - 明治大学女子部法科を卒業
嘉子さんは、高等女学校卒業後、明治大学専門部女子部法科に入学しました。
当時、女性が法律を学ぶことは非常に珍しく、差別や偏見と闘わなければなりませんでした。
しかし、嘉子さんは勉学に励み、1935年に女子部法科を卒業。さらに明治大学法学部に編入し、1938年に首席で卒業しています。
在学中の成績は非常に優秀で、男子学生の刺激にもなっていたそうです。
三淵嘉子の結婚と夫について
嘉子さんは、1941年11月に和田芳夫さんと結婚しました。芳夫さんは嘉子さんの実家に書生として出入りしていた明治大学の卒業生でした。
しかし、第二次世界大戦中の1944年6月に芳夫さんが召集されてしまい、嘉子さんは幼い息子を抱えながら、空襲から逃げ惑う苦しい生活を送ることになりました。
そして、終戦後の1946年5月、芳夫さんが上海から引揚途中に長崎で病死してしまったのです。
三淵嘉子の息子について
嘉子さんと芳夫さんの間には、1943年1月に長男の芳武さんが生まれています。
しかし、前述の通り、芳夫さんが戦地に赴いたため、嘉子さんは幼い芳武さんを抱えながら、戦火を逃れる日々を過ごさなければなりませんでした。
芳武さんは、母である嘉子さんの偉業を誇りに思っていたそうです。
三淵嘉子と中田正子の関係
嘉子さんと同じく、中田正子さんも日本初の女性弁護士の一人でした。
嘉子さんと中田さんは、明治大学専門部女子部法科の同級生で、ともに1938年に司法試験に合格しています。
当時、女性が司法試験に合格したことは快挙とされ、新聞でも大きく取り上げられました。
嘉子さんと中田さんは、互いに切磋琢磨しながら、女性法曹界の先駆者として活躍したのです。
三淵嘉子の人物像 - 人々に寄り添う姿勢
嘉子さんは、弁護士としてだけでなく、裁判官としても活躍しました。
1972年には新潟家庭裁判所の所長に就任し、女性初の裁判所所長となったのです。
家庭裁判所の所長時代、嘉子さんは、調停室の壁を明るい色に塗り替えたり、静かな音楽を流したりと、家庭問題で悩む人々の心に寄り添う工夫を凝らしました。
また、少年事件や家事事件について、一般社会の理解を得るために精力的に講演活動を行いました。
嘉子さんは「家裁は人間を取り扱うところで、事件を扱うところではない」と考え、常に人々に寄り添う姿勢を大切にしていたのです。
朝ドラ「虎に翼」のモデルとなった三淵嘉子の生涯
三淵嘉子の生い立ちと家族
嘉子さんは、台湾銀行の支店長を務めていた父・武藤貞雄さんの長女として、シンガポールで生まれました。
貞雄さんは、東京帝国大学を卒業した高学歴の人物で、男女平等の考えを持っていました。
一方、母・ノブさんは、良妻賢母であることを理想としていました。嘉子さんには、弟が1人いました。
三淵嘉子が法律を学んだ理由
嘉子さんが法律を学ぼうと決意したのは、女性の地位向上を願ってのことでした。
当時の民法では、女性は結婚すると「無能力者」とされ、夫の許可なしには法的な行為ができませんでした。
嘉子さんは、そのような女性の立場に疑問を感じ、法律を学ぶことで女性の地位向上に貢献したいと考えたのです。
父・貞雄さんも、嘉子さんが法律を学ぶことを応援してくれました。
三淵嘉子の弁護士としての活動
嘉子さんは、1940年に弁護士登録を行い、日本初の女性弁護士となりました。
しかし、第二次世界大戦の影響で、弁護士としての活動はほとんどできませんでした。
そのため、嘉子さんは母校である明治大学専門部女子部法科の助手や助教授として、後進の指導に当たりました。
三淵嘉子が日本初の女性裁判官になるまで
終戦後、嘉子さんは、男女平等の時代になったのだから、女性も裁判官になれるはずだと考え、1947年に裁判官への採用を願い出ました。
しかし、最初は認められず、司法省で民法改正などの仕事に携わることになりました。
2年後の1949年6月、ようやく東京地方裁判所の判事補に任命され、女性の裁判官としては2番目の採用となったのです。
三淵嘉子の裁判官としての功績
嘉子さんは、1952年に名古屋地方裁判所で初の女性判事となり、その後、東京地方裁判所や東京家庭裁判所で民事裁判や少年審判を担当しました。
特に家庭裁判所では、夫婦問題や親子問題など、家庭に関する問題を扱いました。
1972年には、新潟家庭裁判所の所長に就任し、女性初の裁判所所長となったのです。
嘉子さんは、「家裁は人間を取り扱うところで、事件を扱うところではない」と考え、常に人々に寄り添う姿勢を大切にしました。
三淵嘉子の晩年と死去
嘉子さんは、1979年11月に定年退官しました。
退官後は、弁護士として活動するかたわら、労働省男女平等問題専門家会議座長や東京家庭裁判所調停委員などを務めました。
1984年5月28日、69歳で死去。葬儀には2千人近くが参列し、嘉子さんの功績をしのびました。
虎に翼のモデルに関するよくある質問
- Q. 三淵嘉子さんはどこの大学を卒業したの?
- A. 三淵嘉子さんは、明治大学専門部女子部法科を卒業後、明治大学法学部に編入し、首席で卒業しました。
- Q. 三淵嘉子さんが女性初の裁判官になったのはいつ?
- A. 三淵嘉子さんが女性の裁判官として任命されたのは、1949年6月のことです。東京地方裁判所の判事補に任命され、女性の裁判官としては2番目の採用となりました。
- Q. 三淵嘉子さんの夫はどんな人?
- A. 三淵嘉子さんの最初の夫は、和田芳夫さん。明治大学の卒業生で、嘉子さんの実家に書生として出入りしていました。1941年11月に結婚しましたが、第二次世界大戦中に召集され、終戦後の1946年5月に病死しました。
三淵嘉子の生涯から学べること - まとめ
三淵嘉子さんの生涯は、女性の地位向上のために尽力した人生でした。
嘉子さんは、法律を学ぶことで女性の立場を改善したいと考え、日本初の女性弁護士となりました。
嘉子さんの生き方は、現代を生きる私たちにも、多くの示唆を与えてくれるのです。
記事のまとめ
- 朝ドラ「虎に翼」の主人公・猪爪寅子のモデルは、三淵嘉子である
- 三淵嘉子は、日本初の女性弁護士であり、のちに初の女性裁判官となった
- 三淵嘉子は、明治大学専門部女子部法科を卒業後、明治大学法学部に編入した
- 三淵嘉子は、1940年に弁護士登録を行い、女性弁護士第1号となった
- 戦時中は弁護士活動が難しく、母校の助手や助教授として後進の指導に当たった
- 1949年、東京地裁判事補に任命され、女性裁判官2番目の採用となった
- 1972年に新潟家裁所長に就任し、女性初の裁判所所長となった
- 三淵嘉子は、家庭裁判所の改革に尽力し、人々に寄り添う姿勢を大切にした
- 三淵嘉子は、講演活動などを通じて、少年事件や家事事件への理解を求めた
- 三淵嘉子は、女性の地位向上のために尽力し、法曹界のパイオニアとなった
三淵嘉子の生涯は、男女差別が根強かった時代に、法律の力で女性の地位向上に尽くした物語です。
朝ドラ「虎に翼」を通して、三淵嘉子の功績と思いが多くの人に伝わり、現代を生きる私たちが、性別に関わらず、自分の夢や目標に向かって挑戦する勇気をもらえることでしょう。
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